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零戦と紫電 ~終戦記念日に絡めて~ [歴史]

 今年もまもなく、終戦記念日がやってくる。この時期になると、いつも思う。日本は息も絶え絶えの状態になり、広島、長崎に原爆が落とされて、もう負けは確実になっていた。満州ではソ連が参戦し、開拓団の絶望的な逃避行が始まった。本土は連日連夜の空襲を受け、無辜の人々がどんどん死んでいった。特攻隊員は敵艦目指して次々に体当たりした。この暑い時期、未来人のわれわれは、当時、戦争で死んだ人々の冥福を祈り、今の平和を改めて認識する必要があると思う。

 私は当時の戦闘機のプラモデルを作るのが大好きである。しかし、自分の作っている模型は、昔、実機があって、実際にパイロットが血みどろの戦いをした、正にその飛行機なのだということが、いつも頭の中にある。飛行機、特に戦闘機は美しく、かっこいい。だけど、その華やかさの裏に悲しい現実があった。このことだけは忘れてはならないと思っている。

 さて、私が今作っている「紫電」という戦闘機。これは太平洋戦争の末期に「局地戦闘機」として活躍した戦闘機である。「局地戦闘機」とは爆撃機の迎撃が主な任務である。これに対して「艦上戦闘機」というのは、空母に載せて敵地まで運んでそこから攻撃をしかける、零戦に代表されるようなものである。つまり「艦上戦闘機」とは主に攻めに用いるもの、「局地戦闘機」とは主に守りに用いるものと言うことができると思う。

 私は一人の模型愛好家としての視点しかないが、旧日本海軍の戦闘機のプラモデルで、「艦上戦闘機」という肩書きがついているのは、零戦の他は「烈風」(早期に開発が始まっていたにもかかわらずトラブル続きで実戦に間に合わなかった)だけのようで、あとはみんな「局地戦闘機」である。

 零戦の最初の型の11型がデビューしたのは昭和15年であり、太平洋戦争が始まる前の日中戦争の頃だった。昭和15年がちょうど皇紀2600年(神武天皇の即位から数えた暦)であったから、末尾の「0」をとって「零式艦上戦闘機」と命名された。「零戦」とは「零式艦上戦闘機」の略称である。昭和16年の真珠湾攻撃の際、99式艦上爆撃機、97式艦上攻撃機と一緒に攻撃に参加したのも零戦21型だった。
 
 零戦はドッグファイトをやらせたら当時は無敵だった。そしてこの優秀さが後継機の開発の遅れの原因にもなった。零戦の後に開発された「雷電」や「紫電」、試験飛行だけで終わった「震電」なんかもみんな「局地戦闘機」だ。これが何を物語っているか。つまり戦局が悪化して、遠隔地に攻撃をしかけるよりも基地を守ることに手一杯になっていた。結局、戦闘機の主な任務が爆撃機の迎撃になり、その結果、零戦よりも後発の戦闘機はみんな「局地戦闘機」にならざるを得なかったのだと思う。

 (的を射ていない喩え話かも知れないが、あえて自動車に喩えるなら零戦はカローラのようなもので、これがあまりにも完成度が高く、操縦性もよく、燃費もよかったので、海軍はこれに頼りきりになってしまった。後継機種のフェアレディZが開発されたとき、戦況はすでに変わってしまっていたのだ。零戦と言う名称が戦闘機の代名詞のように使われるのも頷ける話である。何せ10000機も生産されたのだ)

 「紫電」と、これを改良した「紫電改」を主役にした、ちばてつやの「紫電改のタカ」という漫画がある。この漫画の第一巻のカバーに作者の次のようなコメントがある。
 「かつて戦記まんがのブームがあった。どの雑誌にもゼロ戦が飛び交い、隼戦闘機などが謳歌していた。だが、そのほとんどが日本の華やかな勝ちいくさの時代であり、懐かしい古き良き時代のものであった。ブームが去りかけたころ、ある親しい編集者の勧めもあって、今迄だれも手をつけたがらない敗戦ぎりぎりの惨めな時代を生きる戦闘機乗りを描いてみたくなった。その結果できあがったものが、この『紫電改のタカ』である」

 この漫画を読んだのは私が小学生の頃だったが、大変ショックを受けた記憶がある。(ちなみにこの本は今でも大切に保管していて、これのクライマックスを読むと、今でも涙があふれる) この物語は敗戦の1年前の昭和19年から始まる。詳細は割愛するが、主人公がとにかく強い強い。敵の戦闘機や爆撃機を独自の戦法で次から次へと撃墜していく。しかし、時代の流れはどうにもならず、最後は、特攻で死んでしまう、という悲しい物語だった。

 小学生の頃、この物語を読む前は、自分が作っていた戦闘機の模型は、単なるかっこいい飛行機だった。しかし読んだ後、「たくさんの人が死んだんだ」ということを、 ようやく事実として認識することになったように思う。だから自分にとって、「紫電」と「紫電改」という機体には特別な思い入れがある。

 明日は、故郷の千葉に帰省する。途中、久しぶりに靖国神社に行ってみようと思う。特攻で散った当時の若者たちに会いたい。自分の作る模型に鎮魂の意味を込めるためにも。


中国出張(6) 日中戦争の話 其の弐 [歴史]

(つづき)
 日本の敗戦が決定的になった1945年7月、日本軍の今井武夫少将が中国軍の高級軍人の何柱国と会談した際、何柱国は次のように述べたという。
「日本が敗戦の結果衰亡することは、中国として決して望むところではない。むしろ戦後において東洋の一強国として残り、中国とあいたずさえて東洋平和の維持に協力されたい希望である。したがって必要な国力を完全に消耗しきらないうちに、早く戦争を終結するように日本政府の聡明と善処を熱望している。これがため、中国は万一日本の要請があれば日本の和平提案を連合国にとりつぐことに決してやぶさかではない。とくに蒋介石主席は、日本の天皇制存続に好意を寄せ、すでに各国首脳にも、その意向を表明した」

 日本が降伏した1945年8月15日、蒋介石はラジオを通じて勝利宣言を行い、国民に対して次のように呼びかけたそうである。
「我々は報復を考えてはならず、まして敵国の無辜の人民に汚辱を加えてはなりません。彼ら(日本人)がそのナチス的軍閥によって愚弄され、駆りたてられたことに同情し、彼らが自ら誤りと罪悪から脱出できるようにさせるのみであります。もし暴行をもって、かつての敵が行った暴行に報い、奴隷的辱めをもってこれまでの彼らの優越感に報いるなら、報復は報復を呼び、永遠に終わることはありません。これは決して我々仁義の士の目的ではありません」
 蒋介石のこの言葉は、日本人にとって非常に好意的である。しかし終戦後、中国では、国共内戦が再開し、蒋介石の国民党は台湾に敗走した。結局、国民党が台湾(中華民国)を支配し、毛沢東の共産党が大陸(中華人民共和国)を支配する状態になった。今日では台湾では民主主義が根付き、政権が他の政党に変わったりしているが、大陸では共産党の一党独裁が続いている。

 戦争中は、日本は日中戦争のことを支那事変とよび、ここから拡大した米英を相手にした戦争を含めて「大東亜戦争」と呼んだ。「太平洋戦争」という言葉は、戦後、進駐軍から、そのように改めるように指導されたからだった。しかし教育現場で歴史をより正確に把握させようと思ったら「大東亜戦争」という呼び名の方が的を射ていると思う。               
 なぜなら太平洋戦争という言葉を使うと、日中戦争がこれに含まれるという極めて大切なことが忘れられやすいと思うからである。太平洋戦争は日中戦争が終わってから始まったのではない。日中戦争が泥沼化し、これが解決しないまま(これを解決しようとして)太平洋戦争が始まったのであって、日中戦争は1945年の終戦まで続いたのである。

 この時代の歴史を読んでいると、「日本はなぜこんな馬鹿なことをしたんだ?」と、ついつい思ってしまう。でも昔の人のしたことを現代人の感覚で善とか悪とか裁こうとするのは慎むべきだと思う。なぜかというと、現代人の我々は結果が全部わかっているから好きなことが言えるのである。しかしその時代を生きた人は結果を知らなかった。(もちろん一部の聡明な人は結果を予測してはいただろうが時代の流れは変えられなかった)結果を知っている我々から見て滑稽だったり愚かに見えることでも、その場その場で必死に考え、最善を尽くしたのである。これは政治的指導者も、世論を形成した一般大衆も同様である。そして、その連綿と続く歴史の流れの結果として我々が現代に生きている。

 飲んだくれて仕事をしない父親を見て、子供が「なんであんな人と結婚したの」と母親を責めるのは愚かである。いかに父親を軽蔑したところで、母親がその父親と結婚しなければ自分というものが存在しなかったのである。日本の歴史を否定的に見るということは、これに近いと思う。この時代に日本が戦争をしなかったとしたら、歴史は全く変わっている。その場合、自分が今の時代に存在しているかどうかは、わからないのである。だってそうでしょう。戦争で婚約者を亡くして別の男性と結婚した女性はたくさんいたはず。戦争がなかったとしたら、その女性は予定通り、元の婚約者と結婚したはず。そしたら、別の男性と結婚した結果として生まれた子孫は、いないことになってしまう。その子孫の中に、過去の戦争を批判している人がいたら? それは、飲んだくれと結婚した母を責める子供と変わらない。

 過去に起こった事実について「こんなのダメだ、許せない!」と否定したり腹を立てたりすることは、現在の自分の存在そのものを否定することになりかねない。だから自分の価値観の如何に関わらず無意味である。歴史を学ぶときは、過去の経験を未来に生かすように学ぶべきで、そうするからこそ現在、未来の平和に寄与することができる。日本を延々と呪いづづけるように国民を教育する国が日本の回りにいくつかあるが、そりゃ一体なんのための歴史学習なのかと思う。

 僕は、この時代の歴史書を読むにつれて、この辛い時代を生きたすべての人に対して深い敬意を抱かずにはいられない。平和な時代にこそ戦争(歴史)を勉強しよう。今、自分が中国の人たちと平和に仕事ができるという一見当然に見えるこの事実は、戦争を勉強することで当然ではなくなり、幸福な事実に変わる。会社の中国人スタッフ、ホテルの服務員、日本料理屋の女の子たち。我々日本人に優しく接してくれる、これら愛すべき中国人たちといつまでも仲良くできますように。


中国出張(5) 日中戦争の話 其の壱 [歴史]

 話題としては、いささか下火になったかもしれないが、日本では高校生の世界史の履修不足の問題が話題になっている。最近の文部科学省の学習指導要領では社会科は選択で履修するようになっているのだそうだ。
・「地理歴史」という教科の中から、「世界史+日本史」、または、「世界史+地理」
・「公民」という教科の中から、「現代社会」または「政治経済・倫理」
僕の高校生の頃はフルコースだった。「地理」、「倫理社会」、「政治経済」、「日本史」、「世界史」全部履修した。

「近頃はずいぶんと安易になったもんだなあ」などとオッサンぽく嘆きたいところだが、実際のところ自分が高校生の頃のことを思いだしてみると、理科系志望だったこともあって世界史にも日本史にも、かなり手を抜かざるを得なかった。おまけに世界史の担当の先生が、世界史を教えたくて生きているような熱血先生で、定期テストの問題も相当に難しく、ほとんど赤点すれすれで通してもらったようなものだった。

 今日は、出張して2回目の週末である。先週は風邪で寝込んで何も出来なかった。今週は元気だ。それで暇にまかせて、今、自分がもっている歴史認識をまとめてみることにした。興味の無い人には退屈かも知れないけど、ちょっとある人はお付き合いくださいまし。週末は物書きくらいしかやることがないのです。(笑)

■義和団の乱(1900年)
1900年(区切りのいい年だね)、清で義和団という宗教団体が欧米列強の進出に反発して起こした反乱。これの鎮圧のために、列強と日本は清に派兵。以来各国は、条約により、軍を駐屯することを清国政府から許される。日本も同様に、軍を駐屯させることになった。今の感覚で例えるなら在日米軍のようなもの。

■日露戦争(1904年)
ロシアは義和団の乱に便乗して満州を占拠。そこを拠点として朝鮮半島に進出しようとした。日本はロシアの極東における南下政策(ロシアは不凍港が欲しかった)を脅威とみて、満州から朝鮮半島のエリアの勢力範囲を決めようと外交交渉、しかし、ロシアが日本をナメきっていたため、交渉は決裂し、1904年、日露戦争が始まった。
1905年、アメリカの仲介によるポーツマス条約により講和。日本とロシアの勢力範囲が確定。日本は朝鮮を保護国にし、満州の鉄道インフラを得て、南満州鉄道を設立。しかし、アメリカは満州の権益から締め出され対日感情が悪化していく。(なんだよ、せっかく仲介してやったのに、分け前をくれないのかよ、ということ。このとき、アメリカにも権益を分けていれば、歴史は変わったかもしれない、という見方もある)

■素朴な疑問
ロシアと日本がなぜ満州(清)で戦争をやるのか。清は何やってたのか。よくもそんなこと許したもんだ。
→清王朝は満州族の王朝。王朝は漢民族が満州に入ることを禁じていた。結果としてこの地域は中央に比べて野放し状態で警備が手薄になっており、結局、義和団の乱のときにロシアに占領されてしまった。日露戦争のときも日本とロシアのなすがまま。考えてみりゃ、ひどい話だよね。日本とロシアが戦争やってるのに、実際ドンパチやってる場所は清なんだから。

■辛亥革命(1912年)
清王朝が倒れ、孫文の国民党による中華民国が成立。しかし、その後、政情不安定、1928年まで軍閥割拠の状態が続く。

■ロシア革命(1917年)
ロシア革命により帝政ロシアがなくなり共産主義の総本山、ソ連が成立。共産主義拡大の防波堤として満州の重要性が一層増す。満州は、中国にとっては馬賊の横行する「化外の地」でも、日本にとってはまさに「生命線」となり、絶対にここをロシアに占領されるわけには行かなくなった。

■満州事変(1931年)から満州国建国(1932年)へ
関東軍は満州に傀儡国家(傀儡=操り人形)満州国を建国した。ここで特筆すべきは、関東軍(満州地域を担当していた日本軍)が独断でこれを進め、日本政府はこれを追認したという事実。つまり、このあたりから軍部が暴走し始めたということである。
国際連盟は日本の撤退を求めたが、日本はこれを拒否し、1933年、国際連盟を脱退した。つまり、日本にとって満州という地域は、それほど重要だったということだ。

■日中戦争(1937年~1945年)
 1937年の盧溝橋事件。日本軍の演習中に起こった発砲事件。犯人不明。中国軍と日本軍の銃撃戦になる。日本政府はこれを拡大させない方針であったが、小競り合いが収まらず、やがて全面衝突。
日本軍は山岳部を除く、ほとんど中国全土を制圧したが、いつまでたっても降伏させることはできなかった。これは、日本の軍事行動を侵略とみた米英が、中国(蒋介石)を支援したからだった。そこで日本は米英に宣戦布告、真珠湾攻撃から太平洋戦争に突入し、やがて悲惨な結末へ。
(つづく)


終戦記念日 [歴史]

 「昭和と戦争」というドキュメンタリーのDVD(全8巻)を買ってみた。

 今年もまた8月15日、終戦記念日がやってくる。お盆休み前の、仕事の終わりの日、上司のAさんと、後輩のS君と一緒に飲みに行った。2次会はカラオケに行き、軍歌をひとしきり唸った。

 毎年、この暑い季節になると、原爆犠牲者の慰霊祭が行われ、テレビでは「あの戦争はなんだったのか」といった番組が組まれる。よいことだ。現代の我々はごく普通に平穏無事に暮らせている。その「ごく普通」がなかった時代があったのだ。

 欧米列強が帝国主義に取り憑かれて、世界中の国々を植民地にしていた頃、明治維新を成し遂げた当時の日本の指導者は、富国強兵政策を掲げて、軍備増強に取り組んだ。そうしなければ、一人前の国として認められなかった。そして、関東大震災、昭和の金融恐慌などの暗い時代。一般の国民だけではない。国民を戦争に駆り立てた当時の戦争指導者にだって、今の我々には計り知れない苦悩があったはずである。

 テレビでは、あいかわらず首相が靖国神社に参拝するとかしないとか、議論している。政治家が外交やら国益を考えて、するとかしないとか議論するのは仕方ない。でも、我々一般大衆は、あの時代に戦って死んだ人に対して、「お疲れ様でした。安らかにお休み下さい」と言ってあげるくらいしかできないのではなかろうか。靖国神社に行けばわかる。A級だとかB級だとかそんなものを超越したものがそこにある。

 ああ、せみ時雨が聞こえる。今年もまた、終戦記念日がやってくる。


靖国問題から歴史を学ぶ [歴史]

 高校の世界史の授業で忘れられない思い出がある。あるとき突然指名され質問された。「ひぐらし君、帝国主義って何?」

 子供の頃から、社会科は苦手な科目だった。授業も結構いい加減に聞いていた。帝国主義とは何か。冷や汗たらり。字面から考えて適当に答えてみた。「はい、皇帝が自分の国に『なんとか帝国』って名前をつけて治めることです」 後ろで聞いていた教育実習生のくすくす笑う声が耳について離れなかった。

 正解は、「自分の国の領土を外に向けて拡張していこうとすること」である。でも、それを聞いても、「ふ~ん、そういうことか」というくらいの印象しかなかった。しかし恥をかいたことで、この言葉は、それ以後、忘れられない言葉になった。

 それから時は流れ・・・。小泉さんが総理大臣になって間もない頃、靖国神社に公式参拝し(今でもやってるけど)、中国と韓国がこれに抗議したことが話題になっていた頃。タクシーに乗って、ラジオからこのニュースが流れたとき運転手さんが言った。
「靖国神社もA級戦犯を一緒に祀ってあるからいけないんじゃないですかねえ」
 僕は「そうですねえ」としか答えられなかった。このとき、この問題について自分が何も知らないということに初めて気づいた。

 それから、いろいろと調べものをした。
・中国と韓国はなぜ、首相の靖国神社参拝に抗議するのか。
という疑問から始まり、以下順に、
・A級戦犯というのは何なのか。
・極東軍事裁判というのはどんな裁判だったのか。
・日本はなぜアメリカに宣戦布告したのか。
・日本はなぜ満州国を作ったのか。
と遡り、ついに、
・帝国主義とは何なのか。
というところまで辿り」ついた。

 現代の問題に対して「なぜ?」という疑問を抱き、その答えを探そうとしたとき、それは、歴史を学ぶ強い動機となる。学校を卒業して、自分が歴史を勉強することになろうとは思ってもみなかった。そして、かつて自分にとって単に「世界史用語集」の中の用語にの一つに過ぎなかった「帝国主義」という言葉が、実は現代社会の有り様につながる非常に重要なキーワードであることがわかってきた。

 このいきさつの中で考えたことがある。「戦争はいけないことだ、戦争の悲惨さを語り継ぎ、二度とこの過ちを繰り返さないようにしよう」という取り組みが、あちこちでなされている。それはそれで大切なことだと思うのだが、不足している部分があると思う。というのは、こういう語り部たちには、「個人」の視点しかないのである。東京大空襲を体験した人、広島の原爆投下の地獄を見た人、彼らの語る話には戦慄を覚えるが、それだけが戦争の実態ではないはずである。こういう話だけを聞かされて育った子供は、対策を考えずに単に「戦争反対!」を叫ぶだけの大人になりそうな気がする。

 第二次世界大戦、ひいては太平洋戦争がどういういきさつで起こったのかを「国」の視点で語り次ぐ必要がある。つまり当時の政治指導者が、どんな情勢の下に、どんな政治判断をしたのか。それを知らないと、単に戦争は悪だとか戦争は悲惨だとかいう感情論になってしまう。そうるすと、どういう外交をすれば戦争を避けることができるのか、優れた政策を練る政治家を育てるための土壌がどんどん貧弱になってしまうと思うのだ。

 国の視点で語り次ぐためにはどうしたらよいか。それはやっぱり歴史の教科書を充実させるしかないだろう。高校時代の世界史の教科書を読み返したが、単に「日本は極悪だった」と言っているに過ぎなかった。

 僕の認識。当時の日本は、帝国主義という弱肉強食の世界の中で「戦って勝つか、戦わずして欧米の植民地になるか」の選択を迫られた。そして戦う道を選び、結果として負けた。戦うこと以外にどんな政治判断があったんだろうと思って、たまに思いついたことを、シミュレーションしてみるのだが、どうしても悲惨な結果や、わけのわからない結果しか出てこない。どう転んでも結局、世界が成熟して行く過程で、あの辛い時代を通過しなければならない運命にあったのだと思う。今の我々には「歴史に学んで、その教訓を未来に生かす」ことしかできない。それはあたかも一人の人間が青春時代に辛い思いをして、その経験を後の人生に生かすのに似ている。

 歴史を学ぶのは、私人でなく、公人としての人生経験を学ぶことなんだと思う。このことがわかってから、僕は過去何度か、靖国神社に参拝してきた。つらい時代に生まれ、「九段(靖国神社)で会おう」と言って国のために死んでいった英霊に、今の平和を感謝するために。