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滝の白糸(3) [読書]

■再会
 さて、莫大な収入をその身一つで費やす白糸の生活が一変したきっかけは、欣也との再会であった。ある日、白糸は、興業を終えて、夜、金沢の河原を散歩しているとき、偶然、欣弥と再会した。欣也は、馬に白糸を乗せて走った一件で、馬車会社を解雇されて失業中で、金沢まで仕事を探しに来ていたのだった。
 再会を喜ぶ二人。欣也は身の上話を白糸に語った。欣也は元、法科の書生であり、未だ学問に対する情熱を捨てていなかった。これを知った白糸は、意外なことを口にする。

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 「ぢゃ、貴方、御出なさいな、ねえ、東京へさ。もし、腹を立っちゃいけませんよ、失礼だが、私が仕送ってあげようぢゃありませんか。」
 深沈なる御者の魂も、この時踊るばかりにゆらめきぬ。渠は驚くよりむしろ呆れたり。呆れるよりむしろおののきたるなり。渠は色を変へて、この美しき魔性の物を睨めたりけり。(中略)花顔柳腰の人、そもそも爾は狐狸か、変化か、魔性か。
 「何だって?」
 「何だってとは?」
 「どういふわけで?」
 「わけも何もありはしない。ただお前様に仕送りがして見たいのさ」
 「酔興な!」と、御者はその愚に唾するが如くひとりごちぬ。
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 欣也は白糸の意外な申し出に戸惑ったが、「貴方が立派な人物になるのを見たい」という白糸の熱心さに押され、結局、その好意に甘えることにした。何か恩返しをさせて欲しいという欣也に対し、言った白糸の言葉がいじらしい。

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 白糸は鬢のおくれを掻き上げて、幾分のはずかしさを紛らわさむとせり。御者は月に向へる美人の姿の輝くばかりなるを打ちまもりつつ、固唾を飲みてその語るを待てり。白糸は始に口ごもりたりしが、直に心を定めたる気色にて、
 「生娘のように恥ずかしがることもない、いい婆のくせにさ。私の望みというのはね、お前様に可愛がってもらひたいの。」
 「ええ!」と御者は鋭く叫びぬ。
 「あれ、そんな怖い顔をしなくったっていいじゃありませんか。何もおかみさんにしてくれといふんぢゃなし、唯、他人らしくなく、生涯親類のようにして暮らしたいといふんでさね。」
 御者は遅疑せず、渠の語るを追ひて潔く答へぬ。
 「よろしい。決してもう他人ではない。」
 涼しき眼と凛々しき眼とは、無量の意を含めて相合へり。渠らは無言の数秒の間に、不能語、不可説なる至微至妙の霊語を交へたりき。渠らが十年語りて尽くすべからざる心底のほうばくは実にこの瞬息において神会黙契されけるなり。
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 見つめ合う男と女。十年かかっても語り尽くせぬ心を瞬時に通わせた。まさに運命の瞬間であり、この小説の中で、もっともおとぎ話的で美しい部分である。

 次回、悲劇的大事件が起こる。


滝の白糸(2) [読書]

 古典とは何か。そりゃ要するに、良いものが時代を超えて、消えずに残っているもの。駄作はすぐに淘汰される。良いものはいつまでも残る。古典的な名著を専門に扱ってるのが岩波文庫だ。儲けを度外視して、良いものを残そうとするその姿勢は結構好きだ。ただ、だからといってそんなに読んでるわけではないけど。(笑)

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 さて、滝の白糸は、水芸の太夫として金沢に興業していたが、そのほかにも猿芝居、娘かるわざ、剣の刃渡り、盲人相撲、手無し娘、子供の玉乗り、などの見せ物小屋がたくさんあった。ここでは当時の芸能とか娯楽とかいったものののあり方がよくわかる。テレビやラジオのなどのマスメディアのなかった当時は、芸能はライブしかなかったわけで、人々はライブステージを楽しみにしていたのであろう。剣の刃渡りとか、猿芝居なんていうのは、現在でも通用しそうなものであるが、盲人相撲、手無し娘などというのは、身体に障害のある人を利用した見せ物である。現在ではこういうものはまず、見ることはなかろうが、当時の障害者はこのような生き方しかできなかったのであろう。悲しい時代である。

 さて、これら数ある見せ物の中で滝の白糸の水芸は、もっとも人気のあるもので、美しく、芸も人間離れしたすばらしいものであった。彼女の素性と芸を描写した場面がある。

 滝の白糸は越後国新潟の産にして、その地特有の麗質を備へたるが上に、その手練の水芸は、殆ど人間業を離れて、すこぶる驚くべきものなりき。されば到る所大入り叶はざるなきが故に、四方の金主は渠を争いて、ついに例なき莫大の給金を払ふに到れり。渠は親もあらず、同胞もあらず、情夫とてもあらざれば、一切の収入は尽くこれを我が身ひとつに費やすべく、加ふるに、闊達豪放の気は、この余裕あるがために益々膨張して、十金を獲れば、廿金を散ずべき勢を以て、得るままに撒き散らせり。これ一つには、金銭を得るの難きを渠は知らざりし故なり。
(中略)
 静静歩み出でたるは、当座の太夫元滝の白糸、高島田に奴元結かけて、脂粉こまやかに桃花の媚をよそほい、朱鷺色ちりめんの単衣に銀糸の浪の刺繍ある水色絽のかみしもを着けたり。渠はしとやかに舞台好きところに進みて、一礼を施せば、待ち構へたりし見物は声声にわめきぬ。
 「いよう、待ってました大明神様!」
 「あでやかあでやか!」
 「ようよう金沢荒らし!」
 「ここな命取り!」
 やんやの声のうちに渠は静かに面をもたげて、情を含みて浅笑せり。口上は扇を挙げて一咳し、
 「東西! お目通りに控へさせましたるは、当座の太夫元滝の白糸に御座りまする。おめみえ相済みますれば、早速ながら本芸に取りかからせまする。最初こてしらべとして御覧に入れまするは露に蝶の狂ひをかたどりまして『花野の曙』ありゃ来た、よいよいよいさて。」
 さて、太夫はなみなみ水を盛りたるコップを左手にとりて、右手には黄白二面の扇子を開き、や、と声かけて入れ違いに投げ上ぐれば、露を争ふ蝶二つ、縦横上下においつおわれつ、雫もこぼさず翼も休めず、太夫の手にもととまらで、空に文織る錬磨の手術、今ぢゃ今ぢゃと(後略)

 興業の場面で、滝の白糸が登場し、観客が声をかける場面などは、現代の人気歌手のライブステージ等となんら変わりはない。つまり、滝の白糸は今風に言えば、いわゆる「スター」だったわけであり、美しく、芸も達者となれは人気はあがり、これを興業する人は争って彼女を契約を結んだ。

(つづく)
次回、欣也と白糸の再会。


滝の白糸(1) [読書]

 中学生の頃から、大学生の頃まで、小説を読むのは好きだった。でも、最近ではすっかり、読まないようになって久しい。事実は小説よりも奇なり。本当にあったことの方が面白いと思うようになってからは、ノンフィクションばかり読んでいる。でも、昔読んだ小説をまた読み返すなんてことは、たまにする。
 流行の作品には疎いが、クラシックなものを紹介したい。泉鏡花の「滝の白糸」。ずいぶん昔の作品だから、部分的に転載しても、クレームはつかないと信じて、やってしまおう。

 「滝の白糸」というのは正式には「義血侠血」というタイトルの小説である。この小説が明治27年、読売新聞に連載小説として発表されたあと、新劇の舞台で公演されたときのタイトルがそのまま後世で通称となったものらしい。明治27年とは1894年であるから、この小説はかれこれ100年も前の作品ということになる。
 私がこの小説の存在を知ったきっかけは、カラオケであった。5年くらい前のことになる。スナックで飲んでいたとき、となりの客が歌っていた歌が、「金沢情話」という歌で、オープニングの画面に「泉鏡花『滝の白糸』より」と出た。「♪舞台の上の水芸は、裏にあります、からくりが…」歌詞ははっきり覚えていないが、歌詞や間に挟まれるせりふでストーリーがだいたいわかるようになっている、よくできた歌だった。そのストーリーに私は酒を飲むのも忘れてひきこまれた。
 次の休日、私は早速本屋に行き、この本を探しあてた(岩波文庫の「外科室、海城発電」という短編集の中のひとつ)。そして何度も繰り返し読んだ。感動した。以下、ストーリーを追いながら、作品の魅力と自分の感想を、順番に書いてみたい。
 なお、原文中で「渠」という言葉が多用されているが、これは「かれ」と読み、「彼」、「彼女」、「それ」等を意味する代名詞である。文語体であるが、本の中には親切にルビが振ってあって、さほど読みにくいことはない。

■冒頭
 越中高岡より倶利伽藍下の建場なる石動まで、四里八町が間を定時発の乗合馬車あり。賃銭の廉きが故に、旅客はおおかた人力車を捨ててこれに頼りぬ。車夫はその不景気を馬車会社に怨みて、人と馬のあつれき漸く甚だしくも、わずかに顔役の調和によりて、営業上相おかさざるを装へども、折に触れては紛乱を生ずることしばしばなりき。

 主人公は村越欣弥(むらこしきんや)という御者の青年、もう一人は、「滝の白糸」という芸名で名高い水芸の太夫、水島友である。ただし、原文中では、彼女はもっぱら芸名の「滝の白糸」または「白糸」と呼ばれている。
 村越欣弥は、もと法科の学生(当時の言葉で書生)であったが、家庭の事情で馬車会社で御者の仕事をしている。欣弥の引く馬車の経路は人力車と商売競争の激しいところで、客引きのため、欣弥の助手の少年が人力車より速いと言っては客を呼び込んでいた。客の一人に滝の白糸がいた。
 その日、馬車は人力車に遅れをとった。このため、馬車の客たちは欣弥を責め、「約束が違う」と詰め寄った。欣弥は「自分は人力車より速いと言った覚えはない」と言い返したが、「助手の少年が彼女(滝の白糸)に確かにそう言った」と客の一人が言った。すると欣弥は、突然、馬を馬車からはずし、滝の白糸を馬に乗せ、目的地まで走った。滝の白糸は、馬の上で気を失った。

 この出会いの場面は、滝の白糸の女性としての美しさと、欣弥の男性としての精悍さを実によく表現している。まずは滝の白糸の美貌を描写した部分。この部分からは、現代女性の美しさに通ずるものを感じる。

 その年頃は二十三、四、姿は強ひて満開の花の色を洗ひて、清楚たる葉桜の緑浅し。色白く、鼻筋通り、眉に力味ありて、眼色に幾分の凄味を帯び、見るだに涼しき美人なり。これ果たして何者なるか。髪は櫛巻きに束ねて、素顔を自慢に紅のみを点したり。

  次に欣弥が滝の白糸を馬に乗せて走る場面。

 御者は物をも言はず、美人を引抱えて、翻然と馬に跨りたり。(中略)御者は真一文字に馬を飛ばして、雲を霞と走りければ、美人は魂、身に添はず、目を閉ぢ、息を凝らし、五体を縮めて、力の限り渠の腰に縋りつ。風は啾々と両腋に起りて毛髪たち、道はさながら河のごとく、濁流脚下に奔注して、身はこれ虚空をまろぶに似たり。

 実にかっこいいではないか。若者が美しい女性を抱きかかえ、馬にまたがり疾走する場面は、映画なら、きっと、欣弥の真剣な顔、滝の白糸が目を閉じて欣弥にしがみつく様子、二人の髪や馬のたてがみが風になびく様子がスローモーションで映し出され、道端の風景が後ろに飛び去り、道行く人が目を丸くして見送るシーンになりそうである。
 舞台は、越中高岡(現在の富山県高岡市)であり、馬車の経路はここから石動(いするぎ)というところまでである。欣弥は気を失った滝の白糸を茶店におろして介抱をたのみ、すぐに走り去った。

(つづく)